花火 大特価販売中!

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花火の歴史

 

 歴史 


 

紀元前3世紀の中国で爆竹が使用されたのが起源だという説もありますが、最初期の花火は6世紀、中国で火薬が使われるようになるのとほぼ同時期に作られはじめたと考えられています。ただし、10世紀まで花火は存在しなかったという主張もありますが、いずれにしても発明の地は中国であったとされています。

最初期のものは、例えばロケット花火に似たものを敵陣に打ち込んで火事を起こしたり相手を威嚇したりといった、武器との区別がはっきりしないものもありました。

 

ヨーロッパに伝わったのは13世紀以降で、初期のものは祝砲の音を大きくしたり、煙に色などがつくようにしたものだったと考えられています。

ヨーロッパでの主な生産地はイタリアで、火薬と花火製造がさかんに行われました。

この時代、ヨーロッパの花火は主に王侯貴族のものであり、王の権力を誇示するため王が催すイベントなどで揚げられました。ロケットを除く打上花火はイタリアで開発されたという説もあります。

 

16世紀になるとイングランドで花火の技術が大きく進歩しました。1532年、ヘンリー8世は王室軍隊の花火師を徴用するための規則を定め、戴冠式や王室の結婚式、誕生日などでテムズ川で水上花火を楽しんだという記録が残っています。

また17世紀になるとポーランドやスウェーデン、デンマークなどに花火学校が設立され、体系的な知識を有す専門的な花火師集団が形成されていきました。

イングランドのジェームズ1世はデンマークから技術者を招聘し、娘エリザベスの結婚式を花火で盛大に祝ったと言われています。

また1672年にはウリッジ兵器廠に花火研究所が設立され、1683年には花火に関するテキストが刊行されるなど、花火技術は漸次発展していきました。

 

 

 日本での歴史 


 

日本で花火が製造されるようになったのは16世紀の鉄砲伝来以降です。

 

幕府の御金改役の後藤庄三郎光次の著作(幕府の儒学者の林羅山とする説もあり)とされる『駿府政事録』という日記・政事録によると、1613年に徳川家康が駿府城内で外国人の行った花火を見物したというのが、花火という語で確実に花火が使われたと分かる最も古い記録です。『宮中秘策』(1741年)、『武徳編年集成』にも引用されているます。また、古事類苑に、花火の起源や詳細が紹介されており、駿府政事録の記述残っています。

 

1712年(正徳2年)頃出版された和漢三才図会;寺島良安著(江戸時代の図入り百科事典)には、鼠花火、狼煙花火などが紹介されています。

 

異説として、1582年4月14日にポルトガル人のイエズス会宣教師が現在の大分県臼杵市にあった聖堂で花火を使用したという記録が残っています。(『イエズス会日本年報』『ルイス・フロイス日本史』)

 

1585年に、現在の栃木県藤岡町で、皆川山城守と佐竹衆が戦のなぐさみに花火を立てたという記述もありますが、戦の最中に当時貴重だった火薬をそのようなことに使うはずがないという主張もされています。

 

伊達政宗が米沢の居城で、天正17年(1589年)7月7日夜、外国人(大唐人)によって、花火を行ったと言われています(元禄年間作成といわれる伊達家治家記録;貞山公治家記録、伊達天正日記など)。徳川家康の記述内容との酷似や仙台七夕花火の内容と酷似しています。伊達家治家記録が一般に出版されたのは、仙台市図書館蔵書によると、平重道・責任編集;仙台藩史料大成・第1期(出版年 1972-1982)と記されています。

 

信長公記;太田牛一著 巻十四(天正九年辛巳)御爆竹の事という資料に“正月八日、御馬廻、御爆竹用意致し、(中略)御爆竹申し付けの人数、(中略)この外、歴/\、美々しき御出立、思ひ/\の頭巾、装束、結構にて、早馬十騎・廿騎宛乗せられ、後には、爆竹に火を付け、どうと、はやし申し、御馬ども懸けさせられ、其の後、町へ乗り出だし、さて、御馬納めらる。見物群集をなし、御結構の次第、貴賤耳目を驚かし申すなり”と記載があり、天正九年(1581)正月15日に、祝賀の行事として、安土城下で、織田信長が馬揃えを行い、爆竹(花火の一種)を使用したと記されています。

 

江戸時代になり、戦がなくなると、花火を専門に扱う火薬屋が登場しました。1648年には幕府が隅田川以外での花火の禁止の触れを出しており、花火は当時から人気があったとされています。

当時のものは、おもちゃ花火であったと考えられています。

現存する日本で最も古い花火業者は、東京(当時の江戸)の宗家花火鍵屋であり、1659年に初代弥兵衛がおもちゃ花火を売り出したとされています。

 

鍵屋初代弥兵衛は大和国篠原(奈良県吉野郡)出身であり、幼少の頃から花火作りに長けていたと言われています。1659年、江戸に出てきた弥兵衛は葦の中に星を入れた玩具花火を売り出し好評を得ました。弥兵衛はその後研究を続け、両国横山町に店を構え、「鍵屋」を屋号として代々世襲するようになりました。

 

その後大型花火の研究を進め、1717年には水神祭りに合わせて献上花火を打ち上げています。1733年、関西を中心に飢饉に見舞われ、江戸ではコレラが猛威を振るい多数の死者を出した暗い世相の中、将軍吉宗が死者の慰霊と悪霊退散を祈り両国大川(隅田川のこと)の水神祭りを催し、それに合わせて大花火を披露し、これが隅田川川開きの花火の起源になったと言われています。

 

鍵屋と並んで江戸の花火を代表したのが玉屋です。玉屋は鍵屋の手代であった清吉が1810年に暖簾分けをし、市兵衛と改名の上、両国広小路吉川町に店を構えたのが始まりです。

 

このように鍵屋、玉屋の二大花火師の時代を迎えるようになった江戸では、両国の川開きは、両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持つようになりました。

当時の浮世絵を見ると玉屋の花火は多く描かれており、また「橋の上、玉や玉やの声ばかりなぜに鍵やといわぬ情(じょう)なし」(「情」と鍵屋の「錠」をかけている)という歌が残っていることからも、玉屋の人気が鍵屋をしのいでいたと考えられています。

しかし1843年、玉屋から失火、店のみならず半町ほどの町並みを焼くという騒動があり、失火は重罪と定められていた当時であり、また偶然将軍家慶の東照宮参拝出立の前夜であったことから厳しい処分が下され、玉屋は闕所(財産没収)、市兵衛は江戸お構い(追放)となってしまい、僅か一代で家名断絶となってしまいました。

 

当時は、鍵屋のような花火専門業者の花火は町人花火と呼ばれました。

このほか、大名らが配下の火薬職人らに命じ、競って隅田川で花火を揚げたといわれています。これらの花火は武家花火と呼ばれました。特に、火薬製造が規制されなかった尾張藩、紀州藩、水戸藩の3つの徳川家の花火は御三家花火と呼ばれ、江戸町人らに人気がありました。

また仙台の伊達家の武家花火も、伊達政宗以来の豪放な藩風を反映させ、仙台河岸の花火として江戸町人の人気を得、見物人が大挙押しかけ、藩邸近くの萬年橋の欄干が折れるという事故まで発生しました。

武家花火は、戦に用いる信号弾のようなものが進化したもので、狼煙花火と呼ばれ、いわば垂直方向に着目した花火であり、色や形を楽しむ仕掛け花火を中心とした、いわば平面に特化した町人花火とは方向性が異なっていました。

この方向の違いを共に取り入れたのが現代の日本の花火技術です。

 

日本煙火芸術協会創立者で煙火に関する書物を数多く著した花火師の武藤輝彦(1921年 - 2002年)によれば、打揚花火は、1751年に開発されたとされています。それ以前の花火は、煙や炎が噴き出す花火であったと考えられています。

 

鍵屋は第二次世界大戦期に十三代天野太道が花火製造を取りやめ、現在は打ち揚げ専業業者となっています。このため、鍵屋は第二次世界大戦期まで現存したといわれることがあります。

 

花火に関しては特に江戸での記録が多く残っていますが、これ以外の地方で花火が製造されなかったわけではありません。特に、外国と交易のあった九州と、長野、愛知などでは、江戸時代から花火が作られていました。特に、三河国岡崎地方(現在の愛知県岡崎市付近)は徳川家康の出身地ということで、火薬に関する規制が緩やかであり、江戸時代から町人が競って花火を製造ていました。

現在も岡崎周辺におもちゃ花火問屋が多いのはこの名残だといわれています。

これ以外の現在の花火の主な産地は長野県、新潟県、秋田県、茨城県で、徳川家にゆかりのある地方が多いです。

 

明治時代になると、海外から塩素酸カリウム、アルミニウム、マグネシウム、炭酸ストロンチウム、硝酸バリウムといった多くの薬品が輸入され、それまで出せなかった色を出すことができるようになったばかりか、明るさも大きく変化しました。

これらの物質の輸入開始は1879年から1887年にかけて段階的に行われ、日本の花火の形は大きく変化しました。

これ以前の技術で作られた花火を和火、これ以後のものを洋火と言い分けることもあります。

 

新たな薬品によって多彩な色彩を持つ鮮やかな花火が誕生した反面、化学薬品に対する知識不足から相当な事故が発生したのも明治時代です。

特に塩素酸カリウムは他の酸性薬品と混合すると不安定になり、僅かな衝撃でも爆発する危険性が高まる性質を有しており、和火時代の酸化剤として使用していた硝石と同様に扱った場合重大な事故を招く結果となりました。

多彩な色彩を持った洋火を大規模に打ち上げた記録としては、1889年2月11日の大日本帝国憲法発布の祝賀行事で、二重橋から打ち上げたものがあります。

それまで、花火の製造は打ち揚げには何の免許も規制も存在しなかったが、1910年に許可制となりました。

これ以前の地方の花火は、農家などが趣味で製造しているものが多かったのですが、この後、化学知識を駆使する必要から花火師の専業化が進むことになります。

 

大正期には発光剤としてのマグネシウムやアルミニウムなどの金属粉が登場し、夜空により鮮やかに大輪の華を咲かせられるようになり、また塩素酸カリウムに鶏冠石を混合した赤爆を編み出し、大きな発音効果を有す花火が完成していきました。

 

このように順調に技術を発展させていった花火でありますが、昭和に入り戦火が拡大する世界情勢で停滞期を迎えることになります。

花火製造は禁止はされないかわりに高い物品税がかけられましたが、それでも当初は出征兵士壮行の花火や、英霊を迎える慰霊花火など、慰霊祭や戦勝祈願の花火が上げられていました。

しかし戦火の拡大により隅田川川開きの花火大会も1937年に中止となりました。そんな中、花火製造業者は防空演習で使用する発煙筒や焼夷筒(焼夷弾の音を再現する)を製造していました。

 

終戦後は1945年9月に長野市の諏訪神社で花火が揚げられましたが、翌10月に連合軍総司令部により火薬製造が禁じられました。

しかし、1946年7月4日には、各地のアメリカ軍基地で日本業者がアメリカ独立祭の打ち揚げ花火を揚げ、戦後初の花火大会として1946年9月29日と30日に土浦市で開催された第14回全国煙火競技大会(現在の土浦全国花火競技大会)、1947年の新憲法施行記念で皇居前広場(皇居前広場では最後の花火打ち上げとなった)などが行われました。

 

日本の花火製造業者の粘り強い説得により、1948年にはGHQが在庫花火の消費を許可、これを受け両国花火組合主催、読売新聞社が後援、丸玉屋小勝煙火店が単独で打ち上げる、両国川開きの花火大会が1948年8月1日に復活しました。

この時は打ち上げ許可量僅か600発でしたが、平和な時代の大輪の華に70万人の観客がありました(『両国川開年表』)。

 

終戦後はおもちゃ花火を含め、日本の花火は海外に多く輸出されましたが、現在は中国からの輸入量の方が多く、輸出は激減しています。

現在でも多くの花火業者は、地元に根付いた中小企業であり、技術を親の手から子の手へと伝える世襲制をとっています。